ブログを書くの忘れちまってるわけではないのだが、あまり書きたい気もおこらずほおっておいたらどんどん月日が過ぎて長かった残暑もとっくに終わってもうすっかり秋ですね奥さん。 とらやの栗粉餅がまた明日から(毎年十月一日)始まると思うと日本にいる喜びをひしひしと感じずにはおられません。
最近また能楽堂に足を運ぶ頻度が増えてああおもしろいなあと一人耽っている。一人耽っているのをもったいないなあといつも思うのだがこの徹底的に日本の古典というか日本の古典を何重にも塗り込めたようなこの古典はちょっときちがいじみていてそれがいかにも日本らしい感じのきちがいぶりなんだけどそれをどうやって伝えたものでしょう。
私は最初はとくにその独特の音楽の世界にひかれてお能に興味をもつようになったのだけど、最近とみに気付かされているのは、そのことば、詞章にこそ、日本の風土、日本人の感情、美意識、という点で気の遠くなるような奥深い世界がひろがっているのだということであって、ああ途方もない世界をのぞいてしまったなと今頃ようやくきづいて、この頃はことばの理解にも勤めている。 お能のことを考えているとなんとなくこっちで間違っていなかったという気はしていて、それで不思議なことにさみしい気持ちがまぎれるからほんと不思議なものだ。
最近読んだ、平野啓一郎という作家の「葬送」という、ショパンとドラクロワがでてくる荘厳な小説のなかに、ドラクロワが日記をつける、なぜ日記をつけるのかということをしのごの考えながら、というシーンが描かれているのだけど、あたしも日記でも書いてみようかしらね。自分の恥ずかしい部分や負の部分と面と向き合うふてぶてしさは近頃かなり鍛えられてきたような気がするんだよね。
お能の話しをしようと思っていたのにちょっと考えがワキにそれたらもうはじめ何が言いたくて書き始めたのかわからなくなってきたのでこのへんで中途半端に終わろうと思いますけど、たぶん、古代の人々に思いを馳せて自分だけの特別の世界に逃げこもうとしている私と、現実のどさくさを日々生きている私の、その折り合いをつけようとしているまた違う私というのがどっかにいて、日曜の嵐の夜なんかはその3番目のがよくしゃしゃりでてくるんですってよ。
明日の最高気温30度だって。南無三。。
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