2012年10月14日日曜日

神有月とて


「大社」という能を見に行った。大社、つまり出雲大社のお話。

10月は神無月ってゆーけど、それは日本中の八百万の神様が10月はみな出雲大社に行っていなくなってしまうっていう例の件で神無月ってゆーんだってことだけど、当の出雲大社のほうでは10月を神有月と呼ぶんだって。みんな来てるから。
お能の「大社」は端的に言うと、10月に出雲大社で神さんやらなんやかんやが集結してやいのやいの大賑わい、というはなしです。

今年は古事記ができて1300年の年だそう。その記念企画、ということらしいが、この曲はあまり上演されることはない曲だそうで、しかも国文学者の解説付きで、という国立能楽堂ならではの良企画。齋藤英喜先生という仏教大学の先生だったんだけど、専門はお能ではなく、あくまで古事記、日本の神話、宗教というところが国立能楽堂がちゃんと仕事してるのがわかって素晴らしいですね。

その齋藤先生の解説がとてもおもしろかったので、以下全部先生の受け売りですけどヒマな人は読んでください。ヒマじゃなくても気が向いたら読んでください。

古事記には、オオクニヌシ(日本の国造りの神様)がアマテラス(今の天皇はこっちの系譜)に敗れて国を譲る、という話がでてくるが、その際、敗れたオオクニヌシを祭るために建てられたのが出雲大社、なんだそうな。

破れた側を、手厚く奉る、というのは、日本には「御霊信仰」としてひんぱんにみられることらしく、例えばその一例が、菅原道真の太宰府天満宮なのだが(道真いうたら祟りですもんね)、その原型が出雲大社にみられるそう。

それが、どういうわけか、平安末期、鎌倉、室町、と戦乱の中世期の中で、いつのまにか出雲大社のご神体は、「スサノオノミコト」になっちゃってたんだって。
スサノオは、荒ぶる神として武家からの信仰を集めていたらしく、中世の武家の台頭でどうもいつのまにかそうなっちゃったんだって。

お能つーのはそのまっただ中の室町初期のころに形ができあがったんです。
他のほとんどの曲がそうであるように、この「大社」も室町のころにできたものだけど、つまり、できた当時は「大社」でも出雲大社のご神体は「スサノオ」ということになっていたらしい。なんと。

ところで古事記は、天武天皇の命で1300年前の712年に完成したあと、わりと読まれもしないでうっちゃられていたらしく、「あ、そういえば日本の歴史ってそういえばどないなっとったんだっけ」みたいな感じで古事記研究が進められるようになったのは、江戸中期以降なんだそうだ。
そういった流れで古事記研究者、本居宣長とかがでてくるわけらしいんだけど、その頃になってようやく「いやいや、出雲大社のご神体はスサノオじゃなくてオオクニヌシですから」ということがわかって、今は、お能の「大社」も出雲大社のご神体はオオクニヌシ、という体裁になっている、つーわけ(つまり江戸のどっかで訂正された)。

あと、大社にはほかにも「十羅刹女」とか「海龍王」とかいう仏教系の神様がわらわらでてきて舞を舞ったりしてそれがけっこう見せ場になっている。
そのへんの脈絡は私の理解力では不明。

つまり総じていうと「大社」のポイントは、このお能のなかに、日本の国造りの神はじめその他もろもろの神々、古事記という史書の誕生、武家の台頭、中世の動乱、仏教への憧れ、神仏集合、江戸期の国家のアイデンティティの追求、みたいなそんなかんなのエピソードがごっそり読み取れる、ということ。

お能はいつもそんなノリで古典に古典が塗り込まっているので、そういうところが難しく、でもとりくみがいがあっておもしろい。それでいて美しいのだからもうたいへん。

えとーー、ややこしいこと並べておきながらアレですが個人的には小鼓方の大倉源次郎先生の小鼓ていうのが素晴らしくてですね、実は昨日は源次郎先生だから見に行ったとも言えるんですけどね、この小鼓方大倉流の宗家たる源次郎先生てのがいじょーに男前で、たぶん今時のあらゆる能楽師のなかで抜きんでて男前なんだけど、そんなわけなので、どんだけ神様がくるくる舞を舞おうが何しようが、わたしは源次郎先生の冷たい横顔(よしながふみの漫画にでてきそうな)、神々しいかけ声(深い森の梟のような)、小鼓を受ける胸板の美しさ(ああ小鼓にジェラシー)、それさえあれば、もうそれだけで満足なのであります。


舞台がはねて外に出たら、千駄ヶ谷は一面の、まさに空前の規模の、すんげー鱗雲!いやー秋だねー。この鱗に載って八百万の神様がやいのやいのと出雲に渡ってってるような気がしてすごくお目出度いヤローな気持ちになりました。




以上ですー。

2012年10月8日月曜日

猫やい

近所の苫屋にいた老猫。








勝手に師匠と名付ける。